2012年3月23日に「一般社団法人おきなわ離島応援団」設立、翌週の26日に、「ウミンチュの娘」著者でもある今井恒子理事長と、1964年から「波照間島の祭祀」を研究されているアウエハント静子さんと「久高島」に参拝した。筆者にとっては15回目の渡航となったが、その経緯を詳しくご紹介差し上げたい。
「久高に呼ばれるまで渡ってはならない」・・・
沖縄県内39指定有人離島の中でも、もっとも特異な島の一つが「久高島」と言える。アマミキヨと呼ばれる琉球の祖世神が国造りを始めたと云い伝えられ、琉球王国時代には、時の国王が聞得大君を伴って命がけで礼拝に訪れたこともある。12年に一度の秘祭「イザイホー」(現在は行われていない)でも有名。
1983年春の渡嘉敷島を皮切りに、数々の離島を訪ねた筆者にとっても、祈りの島「久高島」は、遊び気分での「渡航」は許されない「島」の一つであった。
初めて訪れたのは、沖縄初上陸の23年後=2006年秋、米国在住の日本人に「久高島」への案内を求められた際、かなりの「覚悟」を決めて南城市の「安座真港」からのフェリーに乗り込んだ記憶がある。僅か25分(高速船は15分)の船旅であるにも関わらず、沖縄本島が雨天のためか、霧の彼方に船の目的地があると錯覚するほど船旅の時間は、異界への感覚。幸い「久高島」に到着したときには薄日の差す陽気に恵まれ、当時、島に1台のレンタカー(現在は無い)に乗って1時間もかからず島を周遊した。その際の感想は一言で述べると「何もない島」。
なぜこの周囲8キロの小さな島が古の昔から尊い島と呼ばれるのか、全く理解できなかった。
今でこそ「久高島参拝」の案内をすることもあるが、当時は敬虔な気持ちよりも、まず自身で行ってみようという「好奇心」が勝っていたのだと振り返る。
2度目の久高島は2009年春、沖縄県庁の公式視察。県職員と共に、「徳仁港」で待ち合わせした男性のガイドに案内された「久高島」は3年前に比べてはるかに理解の深まる旅程であった。ご存じのように沖縄の「拝所(うがんじゅ)」は自然の姿そのものであり、通常の神社仏閣に相当する建屋があるわけではないので、注意しない限りその場所を通り過ぎてしまう。案の定2006年の初渡航では見落とした「拝所」のいくつかを回り(後日聞いたら久高島には35か所の拝所があるとのこと)、アマミキヨや、イシキ浜に流れ着いたとされる「五穀の壺」等の解説に耳を傾けやはり「久高島」にはガイドが必要だと痛感。
3度目の久高島は、2009年秋、ある恩人から、昼前に受信したメールの内容が「久高島」への当日中の案内依頼。友人に紹介された女性のガイドを依頼しようと連絡するも留守番電話。賓客を自身単独で案内するには心もとなく、念のため別の男性ガイドにも打診した。そうこうするうちに留守電のメッセージを聴いた女性から連絡をもらったので、ガイド依頼をするも、すでに男性に声をかけているならば、そちらでどうぞと実にあっけなく辞退。その淡泊な姿勢は印象的であった。
男性による案内は、特に新しい発見もなく無難に終了。さすがに祈りの島「久高島」に一年に2度は通いすぎとも思い当分は沖縄本島から拝むだけと考えるものの、どうしてもガイドを辞退された女性(南城市の公式ガイドで島の神人も兼務)の存在が気になってしかたがない・・・過去3度の渡航は、全て他人の依頼もしくは公式視察であったが、勇気を奮い(それほど久高島は近くて遠い存在)女性に連絡。
例え3カ月先でも構わないと述べた筆者に彼女が提示した日程は幸いにも1週間後。10月15日に単独で訪れた4度目の「久高島」の6時間は記憶に深く刻まれる時間になった。
同年12月に沖縄ファンクラブ会長の矢野弾先生を団長とする経済人12名のミッションを受け入れる計画で、事務局に「久高島」訪問を打診したところ快諾の反応。
女性ガイド(70代)の、鳥や花に愉しそうに語りかけながら案内する姿は、はたして経済人に理解していただけるものかとしばし思案し、思いついたのは第三者に意見をもらうこと。20年来の親交で「沖縄の母」とも慕う沖縄のマザーテレサこと「安田未知子先生(当時79歳)」に久高島への同行をお願いすると、驚くことに沖縄中の「拝所」に明るい安田先生も「人生初の久高島」とのことだった。
安田先生と二人で10月29日訪れた5度目の久高島、ガイドも先生のお墨付きを得られた。同年12月のミッション以降も、久高ノロを生んだ家系に生まれた女性=真栄田苗さんにガイドを依頼し好評を得ている。
久高島への渡航は、「個人個人」の時期があるのか、グループで渡ろうとすると、体調やスケジュールに異変が生じて渡航不能になることもしばしばある。筆者はのべ15回渡航したが幸いなことに同行した関係者では大きな異変はない。しかし、上陸後、立ち入り禁止の場所に足を踏み入れ一時的に精神のバランスをくずしてしまった若い旅行者もいるとのこと。
だが、次のようなルール(筆者の場合は、久高島は月の3分の1は祈りの日なのでその日は渡航を遠慮する、ガイドを依頼する、観光ではなく「参拝」と敬虔な態度で臨むなど)に従って訪問する分には、安全な島であるともいえる。
「おきなわ離島応援団」に集われる善男善女の皆さんも機会があれば、沖縄離島めぐりのきっかけにぜひ「久高島」参拝をおすすめしたい。
理事 シャチごん♪白仁昇
「苦しくなったら戻って来い」を普通の親心とすると、沖縄本島には「苦しくなくても戻っておいで」という親も多いと聞く、その沖縄で「苦しくても戻ってくるな」といって子供を送りだしてきた島のひとつが、宮古島であろう。
琉球王府時代~明治初期まで及んだ過酷な税制度「人頭税」、耕作面積の少なさから、生きていくために二男・三男が島を離れざるを得ない時代、長男の畑も旱魃(かんばつ)の度に収穫が極端に落ち込むことの繰り返し、そして「台風銀座」と呼ばれ記憶にも記録にも残る大自然の脅威…宮古島を旅して歴史を垣間見ると、人間が生きていくことの困難さと同時に、生き抜くたくましさと、それを体験した人間ならではの優しさを実感する。
厳しい環境で育った作物はおいしいというが、厳しい環境で育つ人間もまた、・・・続く
(全文は↓)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-10717-storytopic-64.html