1953年 | 海のない長野県戸隠村で少年は生まれた。(初めて海を見るのは5年後) |
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1957年 | 見渡す周りは、海ばかりの石垣島で少女は生まれた。 |
1962年 | 港のある横浜市で少年は生まれた。 |
1974年 | 青雲の志を抱いた長野の少年は、20歳で単身アメリカに渡った。 |
1976年 | 大都会にあこがれた石垣島の少女は、18歳で単身東京に渡った。 |
1983年 | 南の島にあこがれた横浜の少年は、20歳で単身(貨客船で)沖縄に渡った。 |
〜時は流れて〜 | |
1986年 | 石垣島の少女は結婚し上原恒子から「今井恒子」となった |
1994年 | 20年ぶりに帰国した長野の少年「高野登」は、豪華西洋旅館の大番頭になった。 |
2001年 | 今井恒子は「社長」になった。 |
2004年 注1) |
白仁昇は、沖縄懇話会のパネルディスカッションで平田大一氏に出逢い 「肝高の阿麻和利」に心底感激し、この感動を多くの方に伝えることを誓った。 |
2005年 | 高野登は後に40万部超のベストセラー「リッツカールトンが大切にするサービスを超える瞬間」(かんき出版)を世に送り出した。 |
2006年 | 今井恒子は、関東沖縄経営者協会創始者 仲本潤英先生(当時94歳)に出逢った。 |
注2) | 白仁昇は、琉球新報夕刊コラム「南風」を連載。特に『十五の春その2』は大きな反響があった。 |
高野登の講演会(東京有明ビックサイト)に白仁昇は駆け付け感動した。 | |
注3) | 白仁昇は、東京六本木で平田大一氏を、高野登&岸朝子先生に引き合せた。 |
2007年 | 高野登は、沖縄県うるま市(旧勝連町)で「肝高の阿麻和利」を観劇し、心底感激してこの感動を多くの仲間に伝えたいと願った。 |
高野登を中心とする沖縄視察団が、きむたかホールでの「肝高の阿麻和利」の「公開練習」を見学し、全員が感動で涙した。 (翌年2月の卒業公演を皮切りに同年に5回ほど高野は来沖した) |
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高野登は、那覇市内の懇親会で北大東村の宮城光正村長と出逢い、いつの日か「北大東島」訪問することを約束した。 | |
2008年 注4) |
今井恒子は、30数年ぶりに「セーラー服」を着て仲本先生との約束を守った |
注5) | セーラー服をきっかけに今井恒子は、琉球新報コラム「南風」を連載。特に「学校に行きたかった」は大きな反響があった。 |
白仁昇は、北大東村宮城光正村長の推薦で、増田総務大臣(当時)から 「地域力創造アドバイザー」(北大東村担当)を委嘱された。 |
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今井恒子は、「ブラジル沖縄移民100周年記念祝賀祭典」(サンパウロ)に出席。 地球の反対側に移民した「ウチナーンチュの魂」に触れた。 |
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高野登は、白仁昇と共に「北大東島」を訪問し、宮城村長との約束を守った。子どもたちの澄んだ瞳と島民の豊かな感性に驚きを覚え、「励ますつもりが励まされた」と述べた。 | |
高野登は一人私財を負担し、本土から管弦楽演奏者4名を北大東島に招へいし「クリスマスコンサート」を島民(子供達)に感謝のしるしにプレゼントした。 | |
2009年 注6) 間宮氏メール |
真冬の東京(2月)で頑張れ北大東島シンポジウム(主催:北大東村)開催。 高野登は「ホスピタリティのガラパゴス島北大東島」の演題で基調講演。 同シンポジウムは有料にも関わらず当初見込み80名の2倍近い参加者があり(立見)、首都圏で、「小さな離島にも感心を寄せていただける結果」となった。 |
注7)議事録 | 高野登は沖縄振興審議会委員に選出され、北大東島について積極的に発言した。 |
2010年 | 平田大一氏と白仁昇は「沖縄離島応援団(基本構想)」をまとめ、高野登を発起人共同代表に加えた。 |
2011年 | 平田大一氏の発案で「おきなわ離島応援団」と表記することになり同年3月に一般社団法人設立を目指した。 |
平田大一氏が、沖縄県文化観光スポーツ部長に任命された。 | |
東日本大震災が発生。発起人共同代表の高野登と白仁昇は、離島支援活動を一時休止した。 | |
今井恒子は、矢野弾先生の推薦および屋良優氏の紹介で白仁昇に出逢った。 | |
注8) | 白仁昇は、今井恒子を波照間島の祭祀研究の第一人者「アウエハント静子氏」に紹介した。 |
今井恒子は、東京で高野登の講演会に参加し、感動して翌年1月真冬の 「高野登100年塾(長野市善光寺)」の申し込みを決意した。 | |
2012年 | 高野登は、今井恒子が極寒の善光寺イベントに参加した直後に帰京し、翌日早朝6時の飛行機で石垣に向かう姿に感銘を受けた。 |
今井恒子は角川書店より「ウミンチュの娘」出版し、15歳の夢を叶えた。 | |
「ウミンチュの娘」出版を祝う会 in 沖縄の発起人の一人、金城幸子(ホテルサンパレス球陽館専務)は、今井恒子の人柄と行動力に感銘を受け、おきなわ離島応援団の監事就任を快諾した。 | |
3月23日 | 一般社団法人おきなわ離島応援団として那覇地方法務局に設立届提出。 |
4月7日 | 那覇市ジュンク堂書店での「ウミンチュの娘」トーク&サインショーをきっかけに、活動開始・ホームページ開設 |
注1)ソフトパワーで活性化 沖縄懇話会パネル討論会2004年12月21日(琉球新報)
平田大一勝連町きむたかホール館長は、与勝半島地域の中高校生が出演する組踊劇「肝高の阿麻和利」を紹介。「地域に誇りを持つ子供たちが育てば地域に帰ってくる。幼少の感動体験が沖縄への思いにつながる」などと述べ、世界に発信するには、まず沖縄に立ち返るべきだと強調した。
県産商品のプロデュースを手掛ける白仁昇フロンティアPR社長は離島の過疎化を指摘。「ソフトパワーは離島パワー。人体でも末端が元気でなければ健康ではない。沖縄の末端であり、最先端である離島を元気にしてほしい」と強調した。...続く(全文は↓)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-119482-storytopic-86.html
注2)十五の春(その2)2006年3月15日
その言葉を初めて聞いたのは、故尾辻吉兼氏らであった。「19の春」の間違いかと思った筆者に、与那国島の前町長は淡々と語りかけられた。島に2つある中学校の卒業生の多くは、「15の春」に生まれ島を離れて高校に進学していく。同時に親の試練が始まる…。1人だけなら何とか持ちこたえても、数年後には弟や妹たちがまた進学期を迎える。島の中学生が進学する「石垣島」には、高校までしかない。...続く(全文は↓)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-11966-storytopic-64.html
注3)写真(平田大一氏&高野登)
東京六本木「エディターズ(岸朝子代表)」にて(2006.11.30)
注4)「ウミンチュの娘」155ページ「遊び心」より、証拠写真も掲載されている。
注5)学校に行きたかった2009年3月14日
朝起きると父が新聞を読んでいた。寝ぼけまなこの私に、新聞記事のニュースを1つ2つ話してくれる。高校生まで過ごした石垣島で、海人(ウミンチュー)の父との語らいは、天候が悪く、海がしけている日が多かった。幼い時に母親を亡くした父は、「家族のためにウミンチューとして働いてくれないか」と父親に頼まれウミンチューになった経緯と、何度も「学校に行きたい」と懇願したが、その願いもむなしく、イチマンヤー(糸満漁師の網元)で海人見習いとして働きだした日のことを幾度となく話してくれた。...続く(全文は↓)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-141690-storytopic-64.html
注6)間宮氏メール
注7)第16回沖縄振興審議会議事録(26ページに高野登委員の発言)
http://www8.cao.go.jp/okinawa/siryou/singikai/sinkousingikai/16/gijiroku_16.pdf
注8)アウエハント静子氏 やいまねっとインタビューより
1938年 京都府に生まれる
1960年 同志社大学卒・6月コルネリウス・アウエハントと結婚
1965〜66年・1975〜76年アウエハントと共に波照間島調査
1968年〜86年 スイス・チューリッヒ大学日本語講師。同時通訳で活躍
静子・アウエハント(以下、アウエハント)
主人は柳田国男先生を非常に尊敬しておりました。その先生から「日本の神信仰について源を探るならば沖縄へ」と言われていたのです。主人の長年の親友だった都立大学教授の馬渕東一氏から「それなら神高い波照間島へ行きなさい。波照間島はいろいろな変化の波が余り押し寄せなかったから、とても原初的なものがまだ厳しく守られている」と助言されました。神行事といってもここは農耕儀礼ですから、始めから終わりまで9カ月いないといけない。...続く(全文は↓)
http://jaima.net/modules/yaeyama/index.php?content_id=41